グレーを許容する
あいつは終わったな
新しいテクノロジーや産業が出てくるたびに終わった論を聞きます。
先見性を持った発言なのかもしれませんが、これってもったいないよねって最近思います。
「ガラケーは終わった」
2007年の初期iPhone発売からもう10年経過しています。
2017年の博報堂の調査によるとスマホの所有率は77.5%とのことです。
つまり、この10年をしてもガラケーの息の根はまだ完全に止められていません。
まだ世の中の「デビュー夫人」たちが2割以上残っているというわけです。
ただ、ガラケーの保有割合が限りなく減少して、スマホが優勢になってきているというのは事実です。そのうち本当にガラケーは終わりを迎えるのかもしれません。
キャズムからビジネスの種を見つける
マーケティングの世界では商品が普及に至るまでの過程をキャズムで捉えます。
スマホの例で言うと、現在はレイトマジョリティからラガードの過程といったところでしょう。
商品が受けいれられる形へ進化を遂げて、普及に至るという流れな気がしています。
スマホのUIもどんどん使いやすい形にアップデートを繰り返していますよね。
普及する未来に向けて、そこまでの溝を埋めていくのがビジネスを考えるということです。
先程の「デビュー夫人」もその一つです。
普及にあたっての溝となる年齢層をできるだけ取り込むための広告戦略として、「デビュー婦人」というクリエイティブで訴求するビジネスが広告代理店で生まれているわけです。
物事を0か1かでしか捉えないのはもったいない
「始まった」・「終わった」二択でビジネスを捉えるということは、物事を「ある」・「なし」の2進数的に捉えていると言えます。
0.2や0.5はそこに存在しないのでしょうか。
「終わる」まで過程にこそ、ビジネスのヒントが隠れています。
0か1かと短絡的に捉えると、機会をみすみす逃し誰かに作られた世界を生き続けることになります。
始まりから終わりのまでの「文脈」を作り上げている人が世の中には確実に存在しているのです。
例えば、巷で言われている人工知能で人の仕事をなくすにはどうしたらいいでしょうか。
仮想通貨はどうすれば日本で活用が進むでしょうか。
IoTはどうすれば普及が進むでしょうか。
これらが何かを終わりへと導くと確信した時、文脈を紡いでいく余地はまだまだありそうです。
僕のちかくからは以上になります。