中間のコンテンツ論
コンテンツのちかくに
最終的に何がやりたいかなと最近よく考えますが、どんな形であれコンテンツの近くにいたいと思っている気がします。
一社目に入る時に本が書きたいと宣って、当時の社長に「いやいまから書けよ」と言われ、「僕の人生にはストーリーがないからこの会社の創業期を書かせてくれ」と言った記憶があります。
僕自身もいま思い出したので、誰も覚えてないでしょうが。
結局いま自分のストーリーを書いてるので、結局先祖還りして戻ってきたなという気がします。ブーメランブーメラン。
ストーリーはいつもちかくに
何故そう思ったかというと、恐らく大学時代数々の映像作品の近くにいたからだとは思いますが、授業で観せられる映画のほとんどはストーリーが逸脱しててつまらんかったなという印象があります。
余談ですが、僕は人生で最高につまらんかった映画はと聞かれたら、大学の授業で見た『デッドコースター』を挙げるでしょう。
それに比べて通学電車で読む小説は面白いこと。古典文学もそれなりに読みましたが、どちらかというと東野圭吾等の商業性の高い作家の本をよく読んでいたなと思います。
その時からどこか商業性のない創作物には違和感を感じていたような気がします。
かと言って、MARVELや三池崇史が撮るような商業性のみに特化した映画が好きかというとそうでもありません。
なんというかその「中間」が好きでそれってどこなんだろうなとずっと思っていて、その過程で広告の中間具合に嗜好が寄り添っていったのかなと思います。
広告は誰のちかくにもある
SONYのこの広告は最高にかっこいいです。
Sony Bravia Ball Bounce Commercial
言ってしまえばこのCMはストーリーらしいストーリーはないのですが、”Color like no other”で全てが言い表されてしまう潔さが粋です。
この「誰にでも伝わる」かつ「芸術性が担保された」コンテンツという部分にものすごく惹かれた記憶があります。
映画はちかかったり、とおかったり
つまらなかった映画に共通してたのは「分かるやつに分かればいいよ」というスタンスです。
たしかにそういう映画はカット割りをかなり凝っていたり、現場のスタッフのリソースがかかったものだったりします。
ただ、観るものとしては学習しないと享受できるであろう芸術性とやらが殆どわかりません。
一方、いまの商業性の高い映画は出版物を原作とした実写化がメインです。
どの作品にも共通しているのは、キャスティングで話題性をとって、コストをかけたCGやロケ地で大味にまとめあげるというところです。
もちろん一定の収入が見込めるものの、その殆どは”原作レイプ”とファンから揶揄されています。
収益重視の観るに堪えない作品ばかりが集積されて、大箱の映画館の上映作品の質自体は落ちてしまっているなと思います。
ただそのくらいじゃないと生き残れないんだろう映画館のお財布事情もひしひしと伝わってきます。
「中間」のちかくにいたい
僕の中で好きなのは「中間」という気持ちは変わりません。
「噛んで味が出る」ではこの可処分時間の奪い合いの世の中へのマッチングが悪く廃れていく一方だと思います。
一方「大味にまとめた」作品だけが増え続けるのもどうなのでしょうか。
それこそがコンテンツだと思われるとしたら寂しいものです。
「うちの子は映画を観られない」と仰っていた方がいました。
「見る(観るに非ず)」習慣がYouTubeから始まっているから我慢出来ないそうです。
それはそれで映像を学んだ身として、問題を感じます。
コンテンツには必ず「中間」があるのです。
…と偉そうに宣いながら先日実写版の『銀魂』観て普通に面白かった僕です。
僕の近くからは以上になります。