中途半端な人の声(東京都在住Sさん27歳)
好きな映画に『グッド・ウィル・ハンティング』があります。
天才が大切なものに気づいていく物語です。
好きなシーンはいくつもあるのですが、あまり人が選ばないであろうシーンが気になったりします。
「世間の人は僕と君の差がわからないが、僕には分かる。嫌ってほど分かってしまうのさ」
数学の教授である”先生”が解けなかった問題を主人公である”ウィル”があっけなく解いてしまうシーンです。
その解答用紙を心なく燃やす"ウィル"。
このセリフからは"先生"の嫉妬がにじみ出ています。
足を踏み入れた人にしかわからない世界
僕はある種の専門職からキャリアをスタートさせたと思っています。
広告予算を最適に活用する仕事です。
分析の必要性があったため、少しでも良くなろうと学習を進めました。
その学習を進めているうちに「分析のできる人」のラベルが貼られ始め、今でも周囲からは一種のわかりやすい特性になっているのかなと思います。
ただ、自分は所詮付け焼き刃の分析屋だと常に思っています。
それは分析を学ぶ時間は僕にとって努力が「苦」だからです。
努力できていないことが自分の中で明らかなのです。
しかしそれは周囲には伝わっていなかったり、理解を促せないことが多いです。
本物は努力できる
この記事の一説が興味深かったです。
『秀才は努力の人で、天才は努力しなくてもできる人』とみられがちですが、僕は違うと思う。『秀才は中途半端な努力しかしない人で、天才は超人的な努力をして、しかもそれを努力と思わない人』
こういう人間は自分の近くに何人もいます。
6割の理解を良しとしない人です。
僕は6割で物事を進めることがよくあります。
腰を据えきることができないのです。
例えば分析であれば、数学の知識が無いと統計学を理解するのは難しいです。
6割の理解で進むと必ずと言っていいほど壁にぶつかります。(現にぶつかっています)
統計ができなければ機械学習は学べませんし、人工知能への理解も曖昧になります。
このような形ある理論がいつの間にか概念へと変わっていくことがビジネスの現場ではよくあります。
「人工知能でマーケティングの全体最適化!」みたいな概念たる何かは最たる例です。
それはただただ理解が乏しいからです。
決して、抽象化しているわけではありません。
努力できているか、できていないかでしかないと僕は思います。
“先生”は僕とは違い勲章を得ている教授なので、僕なんかが言うのはおこがましいですが、同じように努力できていない自分への葛藤があったのではないでしょうか。
その葛藤に共感してしまう自分がいます。
僕のちかくからは以上になります。